現在のアメリカ総人口2億4000万人のうち、白人が2億300万人、黒人が2900万人、その他700万人という構成になっています。


つまり黒人比が現在大体12%くらいです。


この黒人層の全人口に占める比率を時系列で見てみると、1790年からだんだん減ってきて1930年で底をついて、大体9.7%になります。


それからまた上昇し、現在の12%ぐらいへと黒人人口比率が増えているわけです。


それと同時に都市の内部ではいわゆる"ドーナツ現象"の一部として、裕福な白人が街中を逃れて、黒人人口比が増えてきました。


そのため黒人の市長さんが増えるという現象が起こっています。


現在黒人市長はアメリカの人ロ10万人以上の都市175のうちの10%ほどに当たる18市長になっています。


人口5万人以上の419都市の中の28、つまり6.7%が黒人市長です。


黒人人口比が12%、10万都市の市長さんの比率が10%と人昆率にほぼ正比例するところまできているわけです。


大都市市部の人口だけ見れば、黒人の比率はもっと上昇し、都市によっては、20%から40%、あるいはそれ以上を占めています。


アメリカでは事実として黒人の都市人口が非常に多いわけです。



バトリックを含む拡大家族(親子、兄弟、姉妹など近親者の核家族が共に生活する大家族)はその後、クィーンズランドへと住まいを移しました。


1879年までにバトリックは、


「まず最初の山をあて、50万ポンドの金を懐に入れようとしていた」。


・・・1880年代までに、一族の事業は西オーストラリアのキンバリー地方にまで広がっています。


しかし1890年代に入り、クィーンズランドでは投機ブームの過熱を見て、オーストラリア東部が慢性的不況に陥ったため、こうした「草の城の王達」は手痛い打撃を受けました。


それ以後一族は、キンバリーの所有地を中心に寄り集まり、依然恵まれた境遇にあったにもかかわらず、過これら金融機関の大半は、人の手で支配されていました。


デュラックス家の話は、他の人々に教訓を与えました。


恵まれた土地の大半は、すでにスクォーターや初期入植者の手中に渡っていたため、多くの移民は奥地へ入るという危険な賭けを冒す覚悟をしていなかったのです。


1890年代に金が発見されたことにより、一部の人々は西オーストラリアに引き寄せられていました。


しかし新参者の大半は、最低限仕事にだけはありつけそうな市や町の近くに留まりました。


・・・その結果、こうした移民が建築ブームをあおり、19世紀後半には都市の成長が記録されたのです。

1850年以降のアイルランド系移民のうち、3分の2はコーク、ケリー、クレア、メリック、ウォーターフォード、コナハットのティペラリ、ゴールウェイそしてレンスターの南西端に位置するキルケニィーといった南西部の州の出身者でした。


他の地域からの移民と異なり、アイルランド人の多くは、イングランド人やスコットランド人がほとんど入植しない、地方部への入植を選んでいます。


しかし、彼らは開拓者の道を選んだわけではなく、人口の多い町の近郊で農業を営むことを計画しました。


都会へ移った者は、その大半が職場に近い市の中心部に住まいを定めます。


しかし北アメリカでの状況とは対照的に、19世紀後半のオーストラリア都市部には、アイルランド人居住地がほとんど存在していなかったのです。


その結果、都会に住まうアイルランドのローマカトリック教徒の女性はプロテスタントの伴侶を得ることになります。


・・・こうして、J・D・ラングの予言はある程度現実のものとなったのですが、社会の調和を乱す形で具体化されたわけではなく、社会にはより調和がもたらされる結果となったと思われます。


アイルランド入社会の中にも、一際目立つ開拓一家が存在しました。


ミカエル・デュラックとその家族は、大飢饉の影響から逃れて3年前に渡豪した兄弟のダービーに追随すべく、1853年にオーストラリアに到着しました。


ダービーの息子のバトリックは、ゴールドラッシュで1、000ポンドの利益を上げ、グールバーン地方に落ち着き、農民として安定した生活を営んでいたのです。

19世紀前半のニューサウスウェールズでは、新天地のことを書き送った私信がもととなり、他の南アイルランド人に移住を促すきっかけをつくっていった様です。


彼らを移住にかりたてたものは、アイルランドがおかれていた状況の中にありました。


1840年代の大飢饉では、ほとんどの人々がアメリカへ渡りました。


飢饉の後にアイルランド人地主がとった再建計画により、多くの入々が長旅もいとわずオーストラリアへ向かう状態が生じています。


地主は自らの利益を上げようと、小作人を農地から追い立てました。


農民は長子相続制を守るため、子供に分割することによる土地の細分化を拒否するのが慣例で、結婚を通じて土地に対する所有権を固めようとしました。


長男以外は冷や飯食いの立場にありました。


年長ですでに結婚している兄弟に比べ、年が若く独身の人々には、早くからオーストラリアに移住する用意があったのです。


(1850年以降の20年間にオーストラリアに移住したアイルランド人の、約85%は独身でした)。


・・・1871年までには、100、000人のアイルランド人がビクトリアに在住し、彼らとその子供達は、170、000人にのぼる植民地のローマカトリック教徒の中で、大きな比重を占めるに至っています。

1880年代の英国は、技術を持たない労働者による「新組合主義」の台頭を見ました。


停滞を続けていた経済と、失業の増大により、技術職人達の間にも新たな連帯感を生み出す結果となり、この連帯感は海を渡って広まりました。


1889年、ロンドンのドックでストライキをおこした人々に対し、これを支持するオーストラリア人達が、30、000ポンドの資金をカンパしました。


階級聞には兄弟のきずなが生まれた様に、民族の間にも、同様の兄弟のきずなが生まれてきたのです。


・・・しかしながら、アイルランド人は19世紀後半の植民地社会の中でも、依然として異端者であり続け、異彩を放つ文化集団を守り抜いていました。


アイルランド人は、補助金が支給される移民に適用された指名制度を、最もひんぱんに利用しました。


その上、アイルランド系住民は、家に金を送ることで縁者の移住を促しました。


1875年から1880年にかけての6年間に、オーストラリアのアイルランド人が故国に対して送金した金は、合計250、000ポンド以上に達しました。


共通の出身地を持つ人々が多かったことにより、オーストラリアのアイルランド人社会は、その結束がより一層強められていたのです。


19世紀後半のアイルランド移民の大半は、南部出身者達でした。


ゴールドラッシュがおこる前、ビクトリアの小さなアイルランド人社会は、主にマンスター出身者から成り立っていました。

労働組合主義の原理は、労働者とその家族とを緊密に結びつけることとなりました。


当然のことながら、オーストラリアの炭鉱においても労働組合主義が出現しました。


その思想は英国入鉱夫の手により英国から持ち込まれ、ノーサンバーランド、ダーラム、ファイフシャーで生まれたその目的と姿勢は、タイン川に臨む英国のニューカッスルに根を下ろしたごとく、ハンター川に臨むオーストラリアのニューカッスルにもその根を下ろしました。


炭鉱での労働方法、村での生活、経営姿勢は、イングランド方式を手本としました。


19世紀全般を通じ、組合指導者のほとんどは、英国の炭鉱夫と同じ就業態度で仕事に臨むようになっていきました。


主要な炭鉱会社は英国に本社を持ち、管理職はここで研修を受けます。


ジェイムズ・カーリーは、ニューカッスル地方での組合運動と、地域社会での生活とに積極的に加わりました。


ダーラム生まれのカーリーは、11才の時からノーサンバーランドの炭鉱で、鉱夫として働き始めていました。


1873年オーストラリアへ来た後、カーリーは1880年代を通じて北部炭田地帯の労働組合を率いる指導力ある代表者となりました。


彼の見解は、次第に穏健派の傾向を強めてゆくことになります。


また、カーリーは生涯を通じてメソジスト教会の熱心な信徒でもあり続けたのです。


これら新興労働組合の代表者と、1850年代の技術職人の世代とを区別したものは、社会変化への対応の仕方(多くの人々は変化に対しては慎重な態度をとり、従来の方法を守り続けた)にあったというより、労働者階級の連帯感の強さにありました。

技術者連合組合はオーストラリアに支部を持ち、ここから英国に対しての連絡が送られました。


1876年、アデレード支部は、


「船は、月に1、2隻の割合で入港し、各船には4人から9人の技術者が乗り込んでいる」


と報告しました。


同様にして、鉱夫からの報告も入ったため、労働組合協議会は、時おり政府に対して移住の援助を止める様に請願しました。


仕事を見つけるのでさえ、時としてままならない状態にあるということは、家を所有するのも難しい状態にあることを意味していました。


移民の大半が集中していたシドニーの中心地では、19世紀後半に家を持つことができた人々は、全体の3分の1に達していなかったと思われます。


しかし、1870年代、1880年代の建築ブーム直後には、ほとんどの移民が本国の農村部、都市部に建つスラム街の家よりましな家を借りることが可能となりました。


ある地域では、血縁と職業が様々に入り混じった一連の文化的価値の媒介ともなりました。


拡張を続けるニューサウスウェールズの炭鉱はその好例です。河成鎮作氏によると、1861年当時3、562人であったニューカッスルの人口は、1891年に入り、40、000人に増加しました。


英国の炭田地帯からは生活のパターンがそのまま導入されることとなりました。


英国同様オーストラリアの炭鉱でも経済、社会両生活を通じ、村人達の生活はまとまりがとれていたのです。

14週間にわたって職を失い、エドワードは妻とその妹と共に、オーストラリアへ移住する意を決しました。


オーストラリアまでの船旅は、3ケ月半に及ぶ日数を要したのですが、船賃には政府の補助がついていたため、エドワードらは、1人につき4ポンド(8ドル)の代金を支払っています。


オーストラリア到着後、彼はほどなくして拡張されたばかりのシドニー大学に、助手として雇われることとなりました。


エドワードは、1917年に61才で世を去るまで、このポストに留まっていました。


エドワード・ハットンの様に好運に恵まれた移民はあまり例がなかったのです。


・・・にもかかわらず、1890年代を迎えるまでのオーストラリア経済は、バラ色に見えた。


1880年当時、イングランド南部および南西部で働く農業労働者の週給は、13シリングス(1.3ドル)か14シリングス(1.4ドル)そこそこでした。


ニューサウスウェールズでは、一般労働者の日給が7シリングス(70セント)から9シリングス(90セント)であったのに対し、農場労働者には賄い付きで、30ポンド(60ドル)から45ポンド(90ドル)の年収がありました。


しかし、やって来たばかりの移民全員に対し、すぐに職が提供されるというわけではなかったのです。


技術労働者でさえ、時には職につけないことがありました。


こうした事態が発生すると、英国にいる労働者仲間に対し、注意を促そうとする試みがなされました。

19世紀後半にロンドンから来た470人のオーストラリア移民を調査した結果、最貧スラム街の出身者こそほとんどいなかったものの、半数近くは貧しい暮らしを送っていたことが判明しました。


ロンドン中心部出身の移民は、その6分の5が平均25才前後で、オーストラリアに向かう以前も、少なくとも一度は転居を経験しています。


自分の父より社会的評価の高い仕事についた者はほとんどなかった反面、半数は父親の階級より落ちぶれていました。


19世紀初頭の移民がそうであった様に貧乏から逃れ、生活の向上を願うほとんどの人々は、移住に対して関心を示しました。


中でもより良い環境は、移民が毎年求め続けたテーマの1つでした。


困難に直面している何千という人々は、オーストラリア、ニュージーランドへ移住することで何を得、また何を失うのでしょうか。


大英帝国の気候は霧が多い上に変わりやすいため、オーストラリアに行くことで健康的になり、元気もわいてくるでしょう。


移民達は、憂うつな暮らしのかわりに、快適な生活を得るのです。


健康、強さ、幸福を手に入れることになります。


また、文明社会から来たということで、新天地の政治、経済、宗教からは、最大級の歓迎を受けることでしょう。


「実際、移民達は生活を豊かにし、幸福にするためのあらゆる自然の要素と、文明の利点とをオーストラリアに見い出すことになろう」。


・・・北イングランドの鉄工場で働いていた23才のエドワード・ハットンは、1879年に英国を去りオーストラリアに向かった移民の1人でした。

おそらくは大半の人々が国を捨てるための動機となるでしょう。


しかし、一定の仕事と小ざっぱりとした住まいさえ確保されれば、かなりの数にのぼる人々は、村に留まるものと私は確信しています。


好奇心があるなら、人里離れた村に足を運んでみましょう。


例えば、ヘイレスウォース近効のクラットフィールドの様な村落を訪ね、道で出会った人に村の様子を尋ねてみるのです。


そうすれば十中八九、昔はもっとたくさんの家があり、その多くは落ちぶれ果て、これと思う若者は、適当な家を見つけることができないために村を去り、落ちぶれた家は荒れるにまかされているという話を聞くでしょう。


村の中には夏になればバラが咲き、くずれかけた壁や朽ちかけた屋根にはつたがからまり、さぞかし美しいだろうと思われる家があります。


しかしたいていそのほとんどは、人の住まいとしてふさわしくないのです。


鉄道網が拡張されたため、南イングランドに住む人々も、19世紀後半には村を捨てる様になりました。


しかし、イングランドの都市へ向かうことで、すべての人々の暮らしが向上したわけではありません。


皮肉にも、すでに完成された都市の上を鉄道が走ったため、適当な住まいを探し出すことが、より一層困難となりました。


ロンドンでは、1840年から1900年にかけて120、000人もの人々が、鉄道建設の為に立ち退きを余儀なくされたものと推定されます。

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