1850年以降のアイルランド系移民のうち、3分の2はコーク、ケリー、クレア、メリック、ウォーターフォード、コナハットのティペラリ、ゴールウェイそしてレンスターの南西端に位置するキルケニィーといった南西部の州の出身者でした。
他の地域からの移民と異なり、アイルランド人の多くは、イングランド人やスコットランド人がほとんど入植しない、地方部への入植を選んでいます。
しかし、彼らは開拓者の道を選んだわけではなく、人口の多い町の近郊で農業を営むことを計画しました。
都会へ移った者は、その大半が職場に近い市の中心部に住まいを定めます。
しかし北アメリカでの状況とは対照的に、19世紀後半のオーストラリア都市部には、アイルランド人居住地がほとんど存在していなかったのです。
その結果、都会に住まうアイルランドのローマカトリック教徒の女性はプロテスタントの伴侶を得ることになります。
・・・こうして、J・D・ラングの予言はある程度現実のものとなったのですが、社会の調和を乱す形で具体化されたわけではなく、社会にはより調和がもたらされる結果となったと思われます。
アイルランド入社会の中にも、一際目立つ開拓一家が存在しました。
ミカエル・デュラックとその家族は、大飢饉の影響から逃れて3年前に渡豪した兄弟のダービーに追随すべく、1853年にオーストラリアに到着しました。
ダービーの息子のバトリックは、ゴールドラッシュで1、000ポンドの利益を上げ、グールバーン地方に落ち着き、農民として安定した生活を営んでいたのです。