2011年2月アーカイブ

19世紀前半のニューサウスウェールズでは、新天地のことを書き送った私信がもととなり、他の南アイルランド人に移住を促すきっかけをつくっていった様です。


彼らを移住にかりたてたものは、アイルランドがおかれていた状況の中にありました。


1840年代の大飢饉では、ほとんどの人々がアメリカへ渡りました。


飢饉の後にアイルランド人地主がとった再建計画により、多くの入々が長旅もいとわずオーストラリアへ向かう状態が生じています。


地主は自らの利益を上げようと、小作人を農地から追い立てました。


農民は長子相続制を守るため、子供に分割することによる土地の細分化を拒否するのが慣例で、結婚を通じて土地に対する所有権を固めようとしました。


長男以外は冷や飯食いの立場にありました。


年長ですでに結婚している兄弟に比べ、年が若く独身の人々には、早くからオーストラリアに移住する用意があったのです。


(1850年以降の20年間にオーストラリアに移住したアイルランド人の、約85%は独身でした)。


・・・1871年までには、100、000人のアイルランド人がビクトリアに在住し、彼らとその子供達は、170、000人にのぼる植民地のローマカトリック教徒の中で、大きな比重を占めるに至っています。

1880年代の英国は、技術を持たない労働者による「新組合主義」の台頭を見ました。


停滞を続けていた経済と、失業の増大により、技術職人達の間にも新たな連帯感を生み出す結果となり、この連帯感は海を渡って広まりました。


1889年、ロンドンのドックでストライキをおこした人々に対し、これを支持するオーストラリア人達が、30、000ポンドの資金をカンパしました。


階級聞には兄弟のきずなが生まれた様に、民族の間にも、同様の兄弟のきずなが生まれてきたのです。


・・・しかしながら、アイルランド人は19世紀後半の植民地社会の中でも、依然として異端者であり続け、異彩を放つ文化集団を守り抜いていました。


アイルランド人は、補助金が支給される移民に適用された指名制度を、最もひんぱんに利用しました。


その上、アイルランド系住民は、家に金を送ることで縁者の移住を促しました。


1875年から1880年にかけての6年間に、オーストラリアのアイルランド人が故国に対して送金した金は、合計250、000ポンド以上に達しました。


共通の出身地を持つ人々が多かったことにより、オーストラリアのアイルランド人社会は、その結束がより一層強められていたのです。


19世紀後半のアイルランド移民の大半は、南部出身者達でした。


ゴールドラッシュがおこる前、ビクトリアの小さなアイルランド人社会は、主にマンスター出身者から成り立っていました。

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