14週間にわたって職を失い、エドワードは妻とその妹と共に、オーストラリアへ移住する意を決しました。
オーストラリアまでの船旅は、3ケ月半に及ぶ日数を要したのですが、船賃には政府の補助がついていたため、エドワードらは、1人につき4ポンド(8ドル)の代金を支払っています。
オーストラリア到着後、彼はほどなくして拡張されたばかりのシドニー大学に、助手として雇われることとなりました。
エドワードは、1917年に61才で世を去るまで、このポストに留まっていました。
エドワード・ハットンの様に好運に恵まれた移民はあまり例がなかったのです。
・・・にもかかわらず、1890年代を迎えるまでのオーストラリア経済は、バラ色に見えた。
1880年当時、イングランド南部および南西部で働く農業労働者の週給は、13シリングス(1.3ドル)か14シリングス(1.4ドル)そこそこでした。
ニューサウスウェールズでは、一般労働者の日給が7シリングス(70セント)から9シリングス(90セント)であったのに対し、農場労働者には賄い付きで、30ポンド(60ドル)から45ポンド(90ドル)の年収がありました。
しかし、やって来たばかりの移民全員に対し、すぐに職が提供されるというわけではなかったのです。
技術労働者でさえ、時には職につけないことがありました。
こうした事態が発生すると、英国にいる労働者仲間に対し、注意を促そうとする試みがなされました。